我が家の末っ子の猫、虎之介の横顔でお送りします、このブログ、結構、大事なことを書こうとしていますよ。
優しさと弱さが似ていることについて、反論をする方は、少ないかと思います。
優柔不断という言葉もありますが、自分を前に出すことを苦手とする方の多くは、弱いのではなく、優しいのであるということが言えそうです。
そして、優しさは、実は、他者を受け入れる能力と正比例しているようです。
他者を受け入れる力、別の言葉でいうなら、寛容さは、一見、弱そうに見える人が、実は備えているすごい力です。
寛容であることには、実は忍耐力が必要です。
一方、自己主張の強い、はっきりとものを言うタイプの人には、この力が備わっていないことが多いようです。
自己中心的な人であれば、なおさら、この、他者を受け入れる能力は、無いでしょう。
弱肉強食という言葉がありますが、今の世の中に、悲しいかな、強さを良しとする風潮があることは否めないことです。
そして、自分を振り返ることの多い、内省的な人や、他者を受け入れる力という類まれな才能を持った人が、正しく評価されない世の中であるということも言えそうです。
こうした、慎み深い人々を、ひとくくりにして、弱いとか、暗いとか、ネガティブな言葉で片付けてはいけないと思います。
判りやすい、声高な主張の陰に、こうした人々が見ている世界の繊細さや、優しさが隠れてしまうのは、非常にもったいないことです。
自己主張をすることが、慎み深くないと言っているわけではないので、そこは誤解しないでいただきたいのですが、人を押しのけて前に出ようとしない人々が、見つめている穏やかで優しさに満ちた世界の素晴らしさは、実は、心に余裕がないと、なかなか、理解できないでしょう。
そして、もっと、問題だと思うのは、一見、強さを備えた人々が、自己主張をしない人のことを、自分より劣っていると考えがちなことです。
そういった、優越感を、受け入れる力の優れた、優しさを備えた人々は、敏感に感じ取ります。
そして、以前にも増して、前に出ようという気持ちを無くしていく、そんな負のスパイラルがあるように感じます。
少し、整理しましょう。
他者を受け入れる力を持っている人々が、一見、おとなしそうに見えるがために、軽んじられることを、私は憂いています。
そして、もっと、問題なのは、その才能を持つ人々自身が、自分のその能力を、欠点と勘違いしているケースがあることです。
寛容さ、受け入れる力は、正しく評価されてよい、素晴らしい才能です。
ところが、派手でわかりやすい能力でないために、その力があることを認識しにくい一面があります。
かつ、自分を抑えて、人の主張を受け入れることができる人の素晴らしさが評価されるより、受け入れられた主張をした人が素晴らしいことになってしまうパターンがあまりにも多いことが嘆かわしいのです。
ですが、受け入れる力を持っている人々の中に、残念ながら、弱い一面をお持ちの方もいらっしゃるのが、ことをややこしくしています。
でも、そうした人々も、自分の中にある、才能=受け入れる力、寛容さに、気づかれて、自信をもっていただけたら、決して、ご自分が、弱さだけを持った人でないことに誇りを持てるように思います。
デリケートな話題を、回りくどくお伝えしていますので、非常に恐縮です。
翻って、自分のことを思う時、受け入れる力を自分の中に育んだ時期は、正直、鬱状態に陥って、まったく自己主張できなかった時期であったという事実があり、あの時の私は、本当に弱かったな、と思います。
でも、弱いなりに、人を受け入れることを学んでいたんだな、と今ならわかります。
それ以前の私は、非常に自己主張のきつい人間でしたので、運命が、強制的に学ばせたのだとも思います。
そう、極端から極端に変化したので、私の場合は、非常にわかりやすかったのです。
でも、ふつうに、(私のように)病むことを経ないでも、寛容さを備えている、素晴らしい人々の多くは、非常にさりげなく、控えめです。
そういう人々の素晴らしさに気付けるようになって、私は嬉しいのですが、まだまだ、そういう感覚が一般的でないことが悔しいのです。
受け入れる力と優しさは正比例していますね。
そして、優しさと弱さが似ているがために、ご自分が「受け入れる力」という才能をお持ちなのに、それを「弱さ」だと勘違いしている方に、私は申し上げたいのです。
「あなたの寛容さは、才能です」と。
以上、最近、自分の主張を受け入れてもらえなくて、無力感を感じたとおっしゃられた方へのエールを込めたメッセージでした。
それでは、また、ブログでお会いしましょう。