おやすみなさい(怒りを祝福すること)

DSC_1017.JPG人との縁は、時間を超越しているな、と思うことの多い私ですが、出会ってから半年もたたない、一人の友人の存在が、まさに、そんな感じがするのです。

彼女は、とても意識の高い人なので、対面して、もしくは電話で、メールで、会話しているとき、多くの気づきを与えてくれる人です。

そんな彼女が、つい最近、肉親への思いにまつわる印象的な話をしてくれました。

彼女のプライベートなことなので、詳しい経緯は伏せさせていただきますが、その体験を通して、彼女は怒りや屈辱感、あきらめ、悲しみといった、一般的に負の感情と言われるものについて、いったん受容して、認め、感謝し、祝福することの大切さに気付いたと話してくれました。

実は、彼女の影響もあり、私は、最近、「神との対話」という本を読んでいます。

その本の中で、神は、私たちに起こる感情を通して、いろいろな意思をつたえている、というくだりがありました。

だから、喜びも悲しみも、神様からの贈り物なんですね。

通り一遍に、その部分を読み過ごしていた私ですが、彼女が、つらい体験を通して、体得した”さとり”にも似た境地に、私は、「神との対話」のその部分を鮮明に思い出しました。

そして、自分自身が、怒りを抑圧しがちなことに、そして、その抑圧した怒りが、私の心身にあまり良くない影響をあたえているかもしれないことに、彼女の体験は、そして彼女の”さとり”は、重要な示唆を与えてくれていることに気づきました。

一般的に、私たちは、怒りとか、悲しみとか、悔しさとか、そういった、いわゆる負の感情といわれるものに、ふたをしがちですね。

でも、ふたをしても、その感情はなくなりませんし、見ないふりをしても、たしかにその感情は存在しています。

だったら、彼女のように、そういった負の感情といわれるものについても、ちゃんと、真正面から見つめ、神様から授かったものとして、受容し、認め、感謝し、祝福したら、どうでしょう?

最初は、気持がついていかないかもしれません。

悔しさや敗北感といった感情は、真正面から見つめるのはつらいものですしね。

でも、感情は、すべて神様が私たちに意思をつたえていることから起こるものだとしたら、悔しさや敗北感も、神様からの授かりものです。

神様から授かった感情を、しっかり受け取り、認め、感謝し、祝福することで、私たちは、より尊いものに近づけるでしょう。

実際、肉親から受けた心の傷を、彼女は、その方法で、乗り越えつつあり、非常にすっきりとした表情をしていました。

私も、自分の中にある、怒り(それは、たとえば、自分が非常に太っていることに対して、自分に怒り、悲しみ、憤り、悔しく思い、人から馬鹿にされているという気持ちになったりしていることですが)を、一旦、神様からの授かりものとして、受容してみようと思っています。

私の友人のように、認め、感謝し、祝福するところまでは、もうちょっと、ふんばらないと、まだ、無理かな・・・。

怒りを祝福できたら、もう、怒りの感情は、私を傷つけたり、ノルアドレナリンを過剰に分泌させたりしませんよね。

私は、まず、怒りを受容します。

そして、自分の感情をもっと、解放しようと思います。

非常に「いい子」ちゃんな、感情でいなくてはならない、そんな縛りを、自分で自分にかける傾向のある私なので、何かに、もしくは誰かに、「いやだな」という気持ちになると、即座に、その感情にふたをして、なかったことにしようとしたり、「いやだな」と思った自分を責めてしまいます。

でも、そのことを彼女に話したら、「いやだな」と思っている私を、認めてあげてね、と言ってくれました。

そうですね、それは大切なことです。

私も、もっと、素直な感情を、自分に許そうと思います。

そして、もっと、のびやかに生きていこうと思います。

そう、心がけることが、きっと、私本来の良さを発揮できるようにしてくれるでしょう。

私は今、「幸いなるかな悲しむもの、かれらは慰められるであろう」という、マタイ福音書のなかの一節を思い出したりしています。

怒りを祝福できるようになったら、また、ブログで報告しますね。

それでは、皆様、おやすみなさい。