親離れ、子離れ、トラ離れ

070902_0052~01-s.jpg以前、撮った、トラちゃんが男前に映っている画像でお送りしますのは、私にとっても、課題と思われるテーマです。

ちなみに、タイトルの最後の「トラ離れ」も、冗談ではなく、私にとって結構シビアなことなんですよ。

さて、「親離れ、子離れ」ですが、我が家において、これは、乗り越えるべきテーマのようです。

母と私の関係について、考えるとき、距離の取り方が、お互い下手なのではないかと思われます。

一般に、母親は、子供を所有物のように勘違いしてしまうことがあり、それが、子離れできない原因の一つとも言われますね。

我が家の場合は、ちょっと、それとは違うようです。

私と母は、私が幼いころは、あまり親密な関係ではありませんでした。

というのは、母が小学校教師をしていて、中学校教師の父とともに多忙な日々を送っていたため、小学校三年で、かぎっ子になるまでは、母方の祖母が、昼間は、私と姉の面倒をみてくれていたのです。

そして、私自身、教師である両親の助けを必要とせず、自分で考え、自分流ではありますが、一人でできてしまう子供でした。

なので、母は、さっさと一人で行動する私を見て、少しさびしかったと、後に私に言ったことがあります。

私は、自主的に行動すると言えば聞こえは良いのですが、かなり、自信過剰で、独りよがりな頑固者でもありました。

それを矯正する意味で、起こったと、今では思えるのですが、私が二十歳のとき、無理をして倒れ、かなり長いこと、眠り続けるということが起きました。そのとき、神秘体験をしています。かなりエネルギーを使ってしまったようです。

目覚めてみると、私は、鬱状態に陥っていて、何一つ、自分ではできない、しょんぼりした性格になっていました。

自分でも驚くほど、弱気で、言いたいことがあっても、何も言えないつらさを、嫌と言うほど、思い知ったのもこのときです。

そして、それ以前の私が、どんなに傲慢で、人を傷つける発言を平気でしていたかも、わかりました。

そんな、性格が激変した私に、母は、非常に驚き、また、なぜ、それが自分の子に起きたのかと、受け入れがたい気持ちだったそうです。

やがて、しょんぼりさんになった私と、母のコミュニケーションが始まりました。

大学を休学して、家に閉じこもりがちな私を、近くの公園まで、散歩に連れて行ってくれたり、黙ってそばにいてくれたり、時間の許す範囲ではありましたが、一生懸命、私を思う母の気持ちが伝わってきました。

思い返すと、二十歳が、私と母の本当のコミュニケーションが始まった起点になっているのです。

私の、大学の先輩に、「洋子が病気になって、初めて、洋子から必要とされました」と語っていたとも聞きました。

そう、二十歳の、しょんぼりした私は、0歳の赤ちゃんとして、母と初めて親子になったようなものでした。

なので、実際に、私と母の歴史は、まだ、三十年とちょっとです。

先ほど、距離の取り方が下手と書きましたが、たとえば、私は、母を喜ばせたくて、必要以上に母にものをプレゼントする癖があります。

母が、それほど、私からのプレゼントを望んでいないことも知っているのに、自分が嬉しいので、何かと母にものを買ってしまうのです。

これは、かなり独りよがりなことで、反省しているのですが、なかなか、治りません。

この頃は、以前より、仕事で得る報酬が増加したので、前より良いものが買えることも嬉しいので、拍車がかかります。

でも、私は知っているのです。母は、私が、元気で仕事にプライベートに、意欲的に取り組んでいるなら、それが一番うれしいと思ってくれていることを。

頭では、それを理解しているつもりでも、出かけた先で、母に似合いそうなもの、母が食べたらおいしいと言ってくれそうなものに出会うたび、ちゅうちょせず、購入している私がいます。

これも、ある意味、買い物依存でしょうか?

そして、もう一つ、「トラ依存」の問題。

トラちゃんとは、我が家の末っ子の猫・虎之介のことですが、この子がもし、老猫になり、やがて、失う日が来ると思っただけで、私は、非常にパニックに近い心境になるのです。

セキセイインコの瑠璃さん、だるまインコのポッピー、十姉妹のトーマスとブリマー夫妻、と、これまで、鳥の家族はいましたが、猫が家族になったのは、初めてのことです。

そして、鳥たちの喜怒哀楽の表現に、癒されてきた記憶を、塗り替えるほど、トラちゃんの喜怒哀楽の表現は、私の心をとらえて離しません。

「こんなに、愛しい存在は、トラちゃんが初めてだ」と感じている自分に、「鳥たちに悪いじゃない」と突っ込みを入れている私がいます。

「トラ離れ」、これは結構、シビアな問題です。

でも、こうも思います。「親離れ」にしろ、「トラ離れ」にしろ、やがて、否応なく別れは訪れますよね。死別ということです。

ならば、その日が来るまで、めちゃめちゃ、愛して、大事にしたって、いいじゃない?と。

この考え、間違っているでしょうか?

それでは、また、ブログでお会いしましょう。