魂の清らかな人ほど、苦しい時代

1.魔術師.jpgのサムネール画像いつからか、気付いたことがあります。

今の世の中は、魂の清らかで、無垢な人には、試練の時代だなぁ、ということに。

以前、「善い人が試練に遭うことについて」という一文をブログアップしたことがありますが、なぜか、善い人ほど、苦労が絶えないように、今の時代はできているみたいです。

「善い」ということについて書くだけでも、小論文ができてしまうでしょうが、この場合の「善い」とは、人を疑わず、本来、人と言うものは善なるものだと考え、行動していて、何かあっても、まず、自分の責任だと思い、努力する人といった感じでしょうか?

善い人は、責任転嫁しませんね。

そこに、つけいる人が存在することは、何と悲しいことでしょうか?

そして、一般的な意味での、「貧乏くじ」を引くのは、すべからく善い人、ということになっているようです。

ただ、本当に善い人は、この「貧乏くじ」をひいた状態を、「貧乏くじ」だと思いませんね。

「きっと、この試練は、自分を磨いてくれる」、そういう捉え方をするでしょう。

ですから、ある意味、「貧乏くじ」は、それを引いた人よりも、他者に「貧乏くじ」を引かせるような行為をした人こそが、また一つ、魂のレベルを落とした、という意味で、真に引いているのかもしれません。

「魂の清らかな人ほど、苦しい時代」というタイトルで、この一文を書いていますが、正しくは、「魂が清らかで、成長段階にいる人には、苦しい時代」と言い直すべきでしょうか?

真に魂が清らかで、あるレベルに達している人には、苦労や試練を、マイナスにとらえる感覚がありませんから、そのレベルに至る前の成長段階の人にとって、苦しい時代と言えるでしょう。

不器用で、うまい言葉が言えない人は、「根暗」と言われて排除されてしまったり、善なる魂で物事をとらえようとする人は、単なる「お人好し」で、片づけられて、尊敬されることがありませんね。

非常におかしいことだと思います。

今、まっすぐな気持ちで、生きようとすると、傷つくことが多い、おかしな時代に突入していると私は思っています。

要領の良いことが、過剰に評価され、多少、軽佻浮薄であっても、明るいことが、過剰に評価される、変な時代だと思います。

「暗い」と言われることを、恐れるのはやめませんか?

「暗い」のではなく、「真面目」なのではありませんか?

「真面目」を恥じる必要があるでしょうか?

多少の不器用さや、言葉のチョイスの未熟さといった、成長段階の人に特有のあらわれを、過剰に馬鹿にするのは、いつも、要領の良い人たちであるようです。

こういう要領の良い人たちは、いわゆる世渡りがうまいせいもあって、他者を馬鹿にするという魂の欠落部分をもちながら、世間的には良い地位にいたりしますから、ややこしいのです。

人を、今いるステイタスで、評価するのではなく、どう、真摯に生きているかで、判じるものさしが、もっと、スタンダードなものになってほしいと、心から思う、今日この頃です。

さて、馬鹿がつくほどの正直や、不器用であるために、損をしている皆さん、その「損」は、きっと、神様があなたを磨くために下さった贈り物だと思いましょう。

そして、共に、より成長していきたいものですね。

それでは、皆様、おやすみなさい。